紅茶づくりへの挑戦(夢ふうき誕生)――薩摩の志を、知覧の風にのせて――
紅茶を学び、味わい、語る中で、私はふと疑問を抱くようになりました。
「どうして日本では、もっとおいしい紅茶が作れないのだろう?」
英国紅茶を長年扱ってきた私たちにとって、紅茶は単なる飲みものではなく、文化そのものでした。
薩摩の地で育った紅茶をいつか作ってみたい——そう思い始めたのです。
実はそれは、私たちだけの夢ではありませんでした。
幕末(約150年前)の薩摩藩の五代友厚が、すでに紅茶づくりを構想していたことを知ったのです。
薩英戦争で捕虜となった五代は、日本の経済の発展、近代化の必要性を痛感しました。
薩摩藩に英国への留学生派遣を上申し、 「紅茶を製造し輸出することで、留学の費用の一部をまかなってはどうか」と提案していたとの記録が残っていました。
明治維新後の1878年、大久保利通らの命で実行にうつされ、「紅茶製法伝習規則」として発令し、 静岡・鹿児島などに紅茶の伝習所が設けられました。
つまり、鹿児島は日本の紅茶の原点の一つ。
百年以上の時を経て、私はその流れの一端を担っているのだと思うと、胸が熱くなりました。
――薩摩と英国の懸け橋。それは館の名前に込めた母の思いであり、同時に薩摩の先人たちの夢と同じでした。
転機が訪れたのは2000年。
母が日本紅茶協会認定ティーインストラクターであることをお聞きになった茶業試験場(現在の独立行政法人野菜茶業研究所)のスタッフの方が、是非飲んでみてほしいともってきてくれた紅茶がありました。
それが、「べにふうき」という品種との出会いです。
初めて口にしたときの衝撃は、今でもはっきり覚えています。
「日本の紅茶で、こんなに香り高く、深みのある紅茶ができるなんて!」
紅茶好きの私たちは感動し、「ぜひお客様にも飲ませてあげたい」とお願いしました。
けれど、研究所は販売ができません。
それならばと、地元の茶農家さんたちにお願いしてまわりましたが、どこも首を縦に振ってくれませんでした。
それでも諦めきれなかった母は、試験場の所長さんに相談。
すると「ならば自分たちで植えてみてはどうですか」と背中を押してくださり、 家族総出で茶畑づくりを始めました。
除草剤も農薬も使わず、土の手ざわりを確かめながら一本ずつ苗を植えていく。
風の音、鳥の声、土の匂いの中で、「この土地の力で紅茶を作りたい」という思いが根を張っていきました。
2年後、最初の手摘みを迎えたとき、摘んだ茶葉から立ち上る若葉の香りに胸がいっぱいになりました。
2003年、ようやく完成した紅茶を「夢ふうき」と名付け、販売を開始。
「みんなの夢が広がる紅茶を」——そんな願いを込めた名前です。
小さな薩摩の紅茶が、ようやくひとつの形になりました。
紅茶づくりの作業は、まるで自然との対話です。
同じ畑でも、風の向き、雨の量、陽の強さによって香りが変わる。
「今年はどんな紅茶にあえるだろう」と心を弾ませながら、茶葉と向き合う日々。
それはティールームで紅茶を淹れていた頃とはまた違う、命と寄り添うような喜びでした。
そして、2007年。 私たちの「夢ふうき」は、英国で開かれている食品の品評会「グレート・テイスト・アワード」の紅茶部門で金賞を受賞しました。
知覧の小さな畑で育った紅茶が、遠く英国の人々に「おいしい」と言われた瞬間。
まるで時を超えて数多くの先人が、私達の背を後押ししてくださったような気がしました。
――薩摩で紅茶を作るということ。 それは、150年前に薩摩の志士たちが抱いた英国への憧れと、この地に根づく自然の力とを、結び直すことなのかもしれません。
「夢ふうき」は人と人を結び、そして時代と時代をつなぐ紅茶でありたいと思っています。